こんなことを書くのも思い上がりかもしれませんが、イケダさんの念頭には自分が少しはあるのかな? と思います。さんざん「イケダさんは継続しろと言うけど、私はいくら継続しても成果が出ません」と絡んできましたからね(笑)。イケダさん界隈の他の方、ヤギさんなどにもツイッターで絡んだことがあり、彼のビリーバーの方に「あなたはヤギさんがどれだけ苦労したか知らない」とか怒られたこともあります(笑)
甘い話に夢を見てしまう人間たち
改めて書くことも無いけど、自分はダメ人間ですよ。ダメ人間だからこそ、世界のどこかに「好きなことやってるだけでなんとか行きていける分野はないものか」とひたすら探し続けてきたわけです。そう、自分探しをし続けてきた。
その顛末はnoteで公開している半生記
『自分探しの成れの果て』に詳しいです。
そんな甘い話はあるものかと言う人は多いでしょう。でも現実問題、本当に多くの人がその甘い話を追い求めてるのもまた、事実なわけです。そしてそのうちごく少数が、運良くその甘い話で成功を収めてしまう。
その典型的な例が、貧者の税金と言われる宝くじです。
いったいこの世のどこに、わずか300円や3000円出して、何億円も手に入れられる話があるっていうんですか。まともに考えればあるはずないですよ。
ところがその「奇跡」を制度化し、現実のものにしてしまうのが宝くじという存在です。圧倒的大多数にとっては無駄でしか無いけど、本当にごく少数、確かに甘い話を現実のものとしてしまう人が誕生する。それもまた、現実なんです。
もしこの世の人が全て、甘い話なんかない、努力するしか無いと割り切れる人ばかりなら、宝くじなんてものは存在できません。誰も買いませんからね。だけど多くの人がそれに群がり、お金を無駄にする。
いわゆる株やFXなどの投資も同じです。投資の雑誌を買うと、毎月のように特集されてますよね? 「普通の主婦がFXを初めて数ヶ月で1億円を手にした」みたいな話が。
もしそういう記事が一切なく、「株やFXで儲けようと思えば、10年は研究や損失を重ねないとダメです。それが現実です」みたいな記事ばかりだったら、売上は激減するでしょう。そんな話には魅力も何もあったもんじゃない。夢がないんです。
多くの人はそんな
現実ではなく、一攫千金の甘い話がどこかに転がっていないかと期待しています。多かれ少なかれ、誰にもそういう側面はあるでしょう。
それが極端まで強まると、無一文になるまでギャンブルですってしまう人が出来上がる。逆側には、そういうものに全く期待せず、現実を直視し、ひたすらストイックに努力する人がいるのでしょう。
その間に多くの凡人がいて、程度問題で、宝くじに手を出したり、株やFXに手を出したり、そして、ブログのアフィリエイトに手を出す人もいるわけです。これがギャンブルで全部吸ってしまう側に近いほどダメ人間の要素が強く、逆側に近いほど、しっかりした人の要素が強くなっていくのでしょう。
自己肯定感が薄い人ほど、運を重視する
このツイートは最初に紹介したものより前につぶやかれたもので、これがあった後に最初のものに繋がるんですが、今回は後ろに持ってきました。
なるほど、たしかにイケダさんの仰るとおりだと思います。自己肯定感が薄い、自己嫌悪が強いということは、簡単にいえば、自分を信用していないということです。
たとえば自分の金儲けの能力に自信があるなら、運に期待して宝くじを買う必要なんか、無いですよね? そんなものに300円使うなら、自己啓発や営業に1円でも回すほうが早いです。
でも、肯定感の弱い人は自分の能力に自信がないので、運に賭けるしか無い。宝くじに能力もなにも無いですからね。せいぜい当たりクジの出やすいと言われる売り場に買いに行くくらいの努力しかしない(笑)。確率論的に言えばまったく無意味なんですが、自分のすることに自信もなく責任を取ることも出来ないから、外部要因に任せるしか無いんです。
こういう性格の人でも、若くして偶然成功することがあります。それこそ運なんですけど、おそらくは若いほど、「俺って実は才能あるんじゃね?」と思う。自分を信じ努力しても上手く行かなかったという「失敗の経験」が少ないからです。
これが歳を取れば取るほど、なにやってもさっぱりうまく行かないことが続けば、本当に能力がないことがわかってくる。
だけど運って、それこそ何歳で巡ってくるかわからないですからね。
たとえば画家のゴッホがわかりやすい例です。今では1枚何億円とかで取引される超有名画家ですが、生きてる間はたった1枚しか売れなかったというのは、有名な話です。
巨匠 ゴッホについて もうね、読むだけで泣きたくなってきますよ。最後はピストル自殺ですからね。
さて、今では巨匠と呼ばれるゴッホですが、はたして彼に、自己肯定感はあったんでしょうか? ゴッホは絵に真剣に取り組んでなかったんでしょうか?
ゴッホにとって必要だったのは、
生きてる間にやってることを評価してくれる人です。死んでからなんて、なんの意味もないですからね。
もし今の社会に生きてて、10年も絵を描いても全くダメだ、どうすりゃいいんだと愚痴を言ったとして、「君は自己肯定感が弱いね。10年位で弱音を吐くなよ。世間には20年30年頑張ってる人もいるんだよ」と言われても、彼からしたら、そんなアドバイス、クソの役にも立ちません。
そして、芽が出ないままに死んでしまう。それが彼にとっての現実です。亡くなった後の評価なんて無意味です。
ゴッホを認めてくれる人が生きてる間に出てこなかった。これって運以外の何物でもないですよね? 自己肯定感がどうこうとか、関係ないですよ。
たしかに、生きてる間に認めてくれる人に出会えていれば、彼はその経験を元に肯定感を強くすることが出来たでしょう。
でも、その運がなかった。運はなかったけど、死後認められたことから言っても、能力があったのは間違いない。
能力も、運によってそれが開花する機会に恵まれなければ、無いのと同じなんです。ゴッホを自殺に追い込まず生かすために必要だったのは、彼を責め立てる人ではなくて、あくまでも生きてる間にその存在や能力を認めてくれる人です。ただそれだけ。
逆に言えば、自己肯定感が強く、死ぬまで努力したって、死後に何も認められずゴミになって終わる人のほうが、圧倒的多数でしょう。
それでも、甘い話を探し続ける
世の中には甘い話は、あります。これは嘘でもなんでもない、れっきとした事実。
同時に、どんなに能力があったところで、運という土壌に恵まれなければ、芽を出すことはありません。
こういうのは結果論です。
結果的に成功した人は、自己肯定感に自惚れるよりも前に、運のよさに感謝すべきじゃないでしょうかね? また、どうにもならない人に、肯定感が足りないとか甘いとか言っても意味が無いということも、理解して欲しいなーと思ってしまいます。
たしかに自己肯定感が強いことが努力の原動力になり、良い結果を招きやすいのも事実かもしれない。だけどそういう人と、それこそ宝くじに全部任せてしまう人、実際はその間はグラデーションにつながっており、言ってしまえば、五十歩百歩です。結果が良ければ報われたと言い、悪ければ考えが甘いだなんだと叩かれる。
自分はダメ人間ですから、おそらくは死ぬまで「今度は自分の番が来るはずだ」と、甘い話を追い続けることでしょう。自己肯定感がないから自分で金を稼げないし、株やFXにに期待してしまうし、それでダメでも肯定感が無いのは変わらないから、追い続けるしか無い。
もし将来、このブログがいきなりなんかのきっかけで大人気になったとして、その時に「これまでの努力が報われた! 自分のやってたことは正しかった!」と肯定感を持てるか?
どうでしょう……死ぬまでその運に恵まれなかったゴッホという人がいるわけですから。やっぱり運が良かっただけだと思いますよ。
今のうちにこういう記事を書いておくことで、そういう自惚れに陥らないようにするフラグを立てておきたいと思います。あくまでも運が良かっただけだよと謙虚に認められるようにしておきたい。
運のおかげだよと思えれば、もし万が一億万長者になっても、「金は俺のものだ!俺の能力が素晴らしいから稼げたんだ!」とか言わず、ノーブレス・オブリージュを意識することが出来るでしょうからね。
ダメ人間が、成長しろとか大人になれとか、そういうありきたりな道に進まず、ダメ人間のままに生きられる道を探す。それが当ブログの目指すところです。 最後に……
いや、寺に入っても上手くいくとは限りません。このあたりは、自分の半生記
『自分探しの成れの果て』をお読み下さい(^^;;;